遺言書より超簡単!エンディングノートの書き方

年間1,000人以上の方にエンディングノートの書き方を伝えているエンディングノートの書き方・終活講師、エンディングノートナビゲーターが解説します


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爆心地から1,2キロで被爆した小学校での想い出

こんにちは。エンディングノートナビゲーター®、終活講師の赤川なおみです。

 

本日は広島に原爆が投下された日です。

戦後70年、70回目の8月6日8時15分は、あの日と同じように暑くて蝉の鳴き声のする時でした。

私は、愛媛県に生まれましたが、小学校は広島の爆心地から1,2キロに位置する小学校に通い、卒業しました。

その頃の想い出は、今でも鮮明です。

小学校の被爆プラタナス

 

 

私の両親は、愛媛県で生まれ育ちましたので、被爆していません。

しかし、通っていた小学校は、爆心地から近かったので、同級生にも沢山の”被爆二世”がいました。

今でこそ、あの日の記憶を後世にも語り継ぐ、ということで、色々な方が語られるようになりました。

しかし、私が小学生だった約40年前は、今とは全く違いました。

 

戦後30年が過ぎ、被爆後何十年も草木が生えないと言われた広島市内は、見事に復活していましたが、それでも被爆した人たちの心は閉ざされたままでした。

夏休みの宿題や、平和学習で「被爆体験を聞く」ということがあっても、身近な友だちのお父さん、お母さんや、おじいちゃん、おばあちゃんは、決して話そうとはしませんでした。

それは、理不尽な差別や、後遺症に悩む人が多かったから。

自分が被爆していることはもちろん、我が子が”被爆二世である”などということが知れれば、結婚できなかったり、差別を受けたりするからでした。

 

私は、戦争の記憶があまりない両親の元に育ちました。

私の祖父母は、私が生まれる前に亡くなっており、唯一の祖母も同居していませんでしたので、戦争体験を聞く事はありませんでした。

母の父親は戦死していますが、母が3歳の頃ですから、何も覚えていないのです。
それで、今回の特別弔慰金の件も、色々大変なのですが・・・

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そんな私の記憶には、とても仲の良かった友人のお母さんが、いつもはとても明るいのに、その話しの時には、とても怖い顔をして「誰にも言うたらいけんのよ」と言っていたことが、今も残っています。

 

それでも、戦後70年となり、被爆者の方の平均年齢も80,3歳となり、歴史を忘れないための取り組みは、毎年広がっています。

被爆した方たちも、辛い記憶を語る方が増えているようです。

友人のお母さんたちも、友人たちに語っているでしょうか・・・

 

辛い記憶をエンディングノートを書くということは、とても辛いかもしれません。

もし、どうしても記憶を書き出す事が辛い時は、無理をする必要はありません。

書きたくなる時まで、その部分は空けておいてください。

 

そんなことしたら、そこだけ空いてしまって、書かないままかもしれないじゃない!と言われるかもしれません。

それでも、強要することではありません。

 

エンディングノートの想い出の項目は、自分が書きたい事、伝えたい事を書いてほしのです。

あなたの残したい記憶はなんでしょうか?

後世に伝えたい記憶はなんでしょうか?

 

まずはエンディングノートを書き始め、書きながら考えてみませんか?

 

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